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東京高等裁判所 平成6年(行ケ)289号 判決 1995年11月28日

原告 青柳敏夫

被告 特許庁長官

主文

特許庁が平成5年審判第922号事件について平成6年10月21日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第1当事者の求めた裁判

1  原告

主文と同旨の判決

2  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第2請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和62年2月23日、名称を「草食動物の硝酸塩中毒予防方法」とする発明(以下「本願発明」という。)につき特許出願(特願昭62-37759号)したところ、平成4年11月19日拒絶査定を受けたので、平成5年1月13日審判を請求し、平成5年審判第922号事件として審理されたが、平成6年10月21日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は同年12月7日原告に送達された。

2  審決の理由の要点

(1)  本願は、明細書の記載からみて、「脱窒バクテリアを草食動物に投与することを特徴とする、草食動物の硝酸塩中毒予防方法」に関するものと認める。これに対する原査定の拒絶の理由の概要は、「本願発明において使用する『脱窒バクテリア』の入手手段が示されていないので、当業者が本願発明を容易に実施できる程度に明細書が記載されていないから、この出願は、特許法36条3項(注 昭和60年法律第41号によるもの。以下同じ)に規定する要件を満たしていない。」というものである。

これに対して請求人(原告)は、審判請求の理由において、微生物の寄託番号を補正する補正案を示し、明細書中で引用している文献の報告者による、本願発明において使用する微生物を昭和61年当時において分譲可能であったこと、本願の発明者が昭和61年に分譲を受けたこと、現在も分譲可能であることを証明する証明書を提出して、<1>使用される微生物は出願当初の明細書において引用した文献で明確に特定されていること、<2>平成4年6月29日に使用される微生物が微工研菌寄第13016号として寄託されていること、から明細書の不備はないと主張している。

(2)<1>  しかしながら、微生物の利用に特徴がある発明は、微生物の性質上、出願時に当該微生物を所定の寄託機関に寄託することを開示の要件とするものである。

しかるに、本願明細書には、微生物に関する文献名のみが記載されているだけで、寄託番号は記載されていないから、明細書の記載は不備であることは明らかである。

<2>  なお、上記文献の報告者が、該微生物が昭和61年当時において分譲可能であったことを証明していても、これは発明者個人に対してのものであって、出願当時において、何人にも分譲可能、つまり、容易に入手可能であったものとは認められない。そうすると、寄託番号に関する補正は、明細書の要旨を変更するものと認められるから、この補正案を受け入れることはできない。

(3)  したがって、本願は、特許法36条3項に規定する要件を満たしていないので、拒絶すべきものである。

3  審決を取り消すべき事由

審決の理由の要点(1) は認め、同(2) <1>、<2>、(3) は争う。

本願は特許法36条3項に規定する要件を満たしていないとした審決の判断は、誤りである。

(1)  審決の理由の要点(2) <1>は、微生物の寄託に関する特許法施行規則27条の2の「微生物に係る・・・容易に入手することができる場合を除き、」の規定部分を全く無視し、微生物を寄託することのみが、微生物を利用した発明における出願手続の唯一の手段であることを前提とした判断であって、誤りである。

(2)  本願明細書には、本願発明において利用される微生物について、その機能(性質)、属及び種を明らかにして微生物が明確に特定できるように記載されていると共に、その微生物について発表した文献名も正確に記載されている。この文献名の記載によって、文献に記載してある微生物の機能・性質等の内容を知ることができると同時に、その発表された微生物に対して興味があれば、それを発表した発表者に対して、その微生物を分けてもらえるかどうかの連絡が可能なのであって、文献名の記載は、出願前の容易入手性を担保したものといえるのである。そのうえ、原告は、上記の点を裏付ける資料として、その出願当初において、本件微生物の発表者でない本願の発明者(任意の第三者)が、本件微生物の発表者から分譲を受けたこと、及びその当初から任意の第三者に分譲することが可能であったことを立証するための証明書(甲第6号証)を提出したのである。この証明書の補正(提出)は、あくまでも「出願前の容易入手性」を裏付けるものであり、「出願後の容易入手性」を立証するためのものではないのであり、特許法17条の規定に基づく適正な補正である。また、寄託番号の補正は、特許法施行規則27条の3の「微生物の試料の分譲」に対応して、単に分譲の窓口を拡大したにすぎないのであって、出願後の容易入手性を裏付けるためではない。

したがって、審決の理由の要点(2) <2>の認定、判断は誤りである。

第3請求の原因に対する認否及び反論

1  請求の原因1及び2は認める。同3は争う。審決の認定、判断は正当であって、原告主張の誤りはない。

2  反論

(1)  「出願前の容易入手性」と「出願後の容易入手性」とは異なるものであるから、微生物が公知であるかないかにかかわらず、「出願後の容易入手性」をもって「出願前の容易入手性」に代えることはできない。出願後の手続補正において補完する場合の「容易入手性」について立証する書面は、微生物が公知である場合についても、「出願前の容易入手性」について立証するものでなければならない。つまり、手続補正が、公知の当該微生物を出願前に当業者が容易に入手できたものであることを示すものであるのならともかく、出願後に容易入手となった事実を証明することで、容易入手性が補完されるならば、出願時に当業者が容易に実施できなかった発明を容易に実施できることとすることになり、不当なことになるので、これは補完できないものである。

甲第6号証(証明書)の4項の「昭和61年当時において分譲可能であったこと」との記載からいえることは、本願出願後である平成4年5月の段階で確認した、昭和61年当時の佐藤教授の意思がそうであったというに止まり、任意の第三者に本願出願前に分譲したことを証明しているものとはいえないし、本願出願時において任意の第三者にはこの点(同教授の意思)が判明していないというべきである。したがって、上記証明書によって、本願出願前に本件微生物が容易に入手できたものであることを証明したとはいえない。

また、本願発明における微生物が本願出願人など特定人に分譲されているとしても、それだけでは、本願出願前に任意の第三者に分譲可能であることを示すことにはならないから、原告主張のように公知で分譲可能というだけでは、本件微生物が本願出願時に当業者が容易に入手可能であったものとすることはできない。

したがって、本願発明の微生物は、本願出願前において容易に入手することができたものとはいえないから、当業者が容易に実施できるように明細書に記載されているためには、特許出願前において、特許手続上の寄託機関に寄託されることを要するというべきであって、「出願後の寄託」で「出願前の容易入手性」を補完することはできないというべきである。

なお、「・・・出願時に当該微生物を所定の寄託機関に寄託することを開示の要件とするものである」との審決の説示は、出願時に容易に入手可能な微生物についてもなお寄託を要するとした趣旨のものではない。

以上のとおりであって、審決の認定、判断は正当である。

第4証拠<省略>

理由

1  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、2(審決の理由の要点)、及び審決の理由の要点(1) (本願発明の構成、拒絶理由の概要、審判請求の理由)については、当事者間に争いがない。

2  そこで、原告主張の取消事由の当否について検討する。

(1)  明細書の発明の詳細な説明には、当業者が容易に実施をすることができる程度に、その発明の目的、構成及び効果を記載しなければならないが(特許法36条3項)、微生物に係る発明について特許出願をしようとする者は、当業者がその微生物を容易に入手することができる場合を除き、ブダペスト条約で定める国際寄託当局の受託証の写し又は特許庁長官の指定する機関に寄託したことを証明する書面を願書に添付しなければならないと規定されている(特許法施行規則27条の2)。

本件において、特許出願の願書に上記受託証の写し又は証明書が添付されていないことは明らかである。

(2)  本願の当初明細書(甲第2号証の2)には、「本発明の目的は草食動物における硝酸塩中毒の発生を積極的に防止する方法を提供することにあり、更に具体的に述べれば、牧草等の哺食により必然的に摂取される硝酸態窒素を積極的に無害化させることにより硝酸塩中毒を予防する方法を提供することにある。」(9頁18行ないし10頁3行)、「本発明によれば、脱窒バクテリアを草食動物に投与することにより上記の問題点が解決されると共に上記の目的が達成される。・・・本発明者は毒性が一般に低いとされる光合成バクテリアの利用に着目して研究を進めた処、ロードプソイドモナス(Rhodopseudomonas)属のものが好ましく、殊にスファエロイデス(sphaeroides)種のものであって、ロードプソイドモナス・スファエロイデス・フォルマ・sp・デニトリフィカンス(Rhodopseudomonassphaeroidesforma sp.denitrificans)と命名されたもの〔T.SATOH et al. “Arch. Microbiol.”108, 265-269(1976)〕が動植物に対して病原性を有さず且つ脱窒能を有しているために、草食動物の硝酸塩中毒の予防に利用し得ることを見出すに至ったのである。」(10頁6行ないし11頁8行)、「本発明方法によれば、脱窒バクテリアを投与するだけで草食動物の血中メトヘモグロビン濃度を低下させることができ、延いては草食動物の硝酸塩中毒を予防することができる。」(11頁末行ないし12頁3行)と記載されていることが認められる。

そして、当初明細書に記載された上記文献(「Archives of Michrobiology」第108巻265頁ないし269頁(1976年)。甲第5号証)には、東京都立大学理学部教授(当時)佐藤敏生外2名の執筆に係る「ロードプソイドモナス・スファエロイデス・フォルマ・sp,デニトリフィカンス,ロードプソイドモナス・スファエロイデスのサブ・スピースィーズとしての脱窒能を有する菌株」と題する論文が掲載されており、同論文の「発生したガスの同定」の項に、「0.2%KNO3含有バーサル培地中で、照明を与え又は与えずにIL106を嫌気培養する場合に、ガスが激しく発生する。このガスを捕集し、ガスクロマトグラフィーにて同定した(第1図)。捕集されたガスの殆どは窒素からなっており、H2、NO及びN2Oは検出されなかった。」と記載されていることが認められる。

更に、広島大学理学部教授佐藤敏生は、原告宛の平成4年5月22日ころ作成の証明書(甲第6号証)をもって、脱窒光合成バクテリアであるRhodopseudomonassphaeroidesforma sp.denitrificansは、同教授が東京都立大学在職中に、同教授の研究グループが見出したバクテリアであること、光合成バクテリアは7株(IL101-IL107)得られたが、Rhodopseudomonassphaeroidesforma sp.denitrificansとは、IL106株であること、上記バクテリアは昭和61年当時において分譲可能であったこと(入手先 東京都立大学)、本願発明の出願人である原告が、昭和61年に同教授から上記バクテリアの分譲を受けたこと、上記バクテリアは証明書作成時においても分譲可能であること、を証明していることが認められる。

上記認定の事実によれば、本願発明において使用する脱窒能を有する光合成バクテリアであるロードプソイドモナス・スファエロイデス・フォルマ・sp・デニトリフィカンスは、上記文献により、本願出願前公知の微生物であると認められる。そして、上記微生物を利用しようとする者が、上記文献に記載された佐藤敏生教授らの研究グループに問い合わせることは容易になし得ることであり、そうすれば、上記微生物の分譲を受けることが可能であったものと認められる。

したがって、本願発明において使用する微生物(脱窒バクテリア)は、本願出願前、当業者において容易に入手し得るものであったものと認めるのが相当である。

なお、甲第3号証によれば、原告は、平成4年6月22日に、前記光合成バクテリアを「ロードバクスター スフェロイデス f.sp.デニトリカンス Rhodobacter sphaeroides f.sp. denitrificans」と表示して、工業技術院微生物工業技術研究所に寄託したこと〔受託番号微工研菌寄第13016号(FERM P-13016)〕、甲第4号証によれば、原告は特許庁審判官に対し、本願の明細書に上記事項を追加記載する手続補正案を示したことが認められるが、上記のとおり、本願発明において使用される微生物は、本願出願前、当業者において容易に入手し得るものであったものと認められるから、仮に上記の点についての補正がなされたとしても、明細書の要旨を変更するものでないことは明らかである。

(3)  被告は、甲第6号証(証明書)の4項の「昭和61年当時において分譲可能であったこと」との記載からいえることは、本願出願後である平成4年5月の段階で確認した、昭和61年当時の佐藤教授の意思がそうであったというに止まり、任意の第三者に本願出願前に分譲したことを証明しているものとはいえないし、本願出願時において任意の第三者にはこの点(同教授の意思)が判明していないというべきであるから、上記証明書によって、本願出願前に前記微生物が容易に入手できたものであることを証明したとはいえない旨主張する。

しかし、甲第6号証は平成4年5月に作成されたものではあるが、上記「昭和61年当時において分譲可能であったこと」との記載は、昭和61年当時の客観的事実自体を示したものとみるべきであって、「出願前の容易入手性」について立証するものであることは明らかである。そして、特許法施行規則27条の2にいう「当業者がその微生物を容易に入手することができる場合」については、当業者が当該微生物を容易に入手し得る状態にあったか否かが問題となるだけであるところ、本件についてみれば、前記文献自体からは、当業者に佐藤教授の前記微生物の分譲意思が判明していなくとも、前記文献を手掛かりに、当業者が同教授に前記微生物の分譲につき問い合わせることに何ら困難性はなく、問い合わせをすれば、分譲の意思があることを容易に知り得る状態にあったものと認められ、したがって、前記微生物は容易に入手し得る状態にあったものと認められるから、被告の上記主張は採用できない。

また被告は、本願発明における微生物が本願出願人など特定人に分譲されているとしても、それだけでは、本願出願前に任意の第三者に分譲可能であることを示すことにはならないから、原告主張のように公知で分譲可能というだけでは、本件微生物が本願出願時に当業者が容易に入手可能であったものとすることはできない旨主張する。

しかし、甲第6号証の記載に照らしても、前記微生物の分譲対象者を特定の者に限定しているとは認め難いから、被告の上記主張は採用できない。

(4)  以上のとおりであるから、本願は特許法36条3項の規定する要件を満たしていないとした審決の判断は誤りであり、原告主張の取消事由は理由がある。

3  よって、原告の本訴請求は理由があるから認容し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 伊藤博 裁判官 浜崎浩一 裁判官 市川正巳)

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